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東京地方裁判所 平成8年(タ)403号 判決 1998年1月30日

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

高井章吾

杉野翔子

被告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

小野寺昭夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

原告と被告とを離婚し、原告と被告との間の長女良子(平成五年七月五日生)の親権者を原告と定める。

第二  事案の概要

一  前提となる事実関係

証拠(甲一、乙一、五)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  原告(昭和三六年五月一一日生)と被告(昭和四〇年七月二〇日生)は、平成三年八月一日婚姻し、その間に長女良子(平成五年七月五日生)があるが、被告は、平成六年七月九日長女を連れて実家(東京都江東区○○所在)に身を寄せ、同日以降原告と別居している。

2  原告は、昭和五九年三月△△大学を卒業して株式会社神戸製鋼所(以下「神戸製鋼」という。)に就職し、現在に至っている。原告は、平成二年三月二五日乙川正子と婚姻し、同年一一月一一月二日同女と協議離婚をした後、前記のとおり被告と婚姻したものである。

3  原告の父甲野明(以下「明」という。)は、平成五年九月二日死亡した。

二  原告の主張の要旨

原告と被告との婚姻は、① 被告は、原告の離婚歴を事あるごとに口にし、「バツ二になったらあなたはおしまいでしょう。」などと、離婚歴という原告の最も触れられたくない弱点を殊更言い立てて責めさいなむ行為をした、② 被告は、原告の父明が余命いくばくもない重い病気にかかって入院していたのに、病院は不潔であるとして良子を明に会わせようとせず、原告が土下座をして頼んだ結果、明の生前ようやく数回だけ良子との面会を果たさせたのみであって、被告のこの行為は、父親の最後を看取ることを当面の最大の役目と考えていた原告の気持ちをはなはだしく傷付けた、③ 被告は、良子の出産後も実家に居続け、平成五年一〇月ようやく原告との同居を再開したものの、実家に依存する態度には変わりがない、④ 被告は、自宅を持つことに関して、原告の妹が六〇坪の土地付き家屋に住んでいるからそれ以上でなければいやと主張して譲らなかったため、原告はやむなく母から約二億五〇〇〇万円の借入れをして、平成六年五月世田谷区内に新居を建築したが、被告は、それにもかかわらず、同年七月良子を連れて実家へ帰ったまま戻らず、今日まで別居を続けている、⑤ 原、被告間の性交渉は、平成五年二月以降被告の拒否のため持たれていない、という事情の下で、既に破綻している。また、被告は、自己中心的な人格を持ち、経済的にも自立する力がないので、離婚に伴い、良子の親権者を原告と定めるのが相当である。

よって、原告は、民法七七〇条一項五号に基づき、被告との離婚を求めるとともに、良子の親権者を原告と定めることを求める。

第三  当裁判所の判断

一  前記第二の一の事実に証拠(甲一ないし六、乙一、二の1、2、四、五、原、被告各本人)及び弁論の全趣旨を加えると、以下の事実が認められる。

1  原告は、昭和五九年四月神戸製鋼に就職した際、高卒の同期生である被告と社内の組合活動を通じて知り会ったが、その時点では被告と婚姻するまでに至らず、乙川正子と協議離婚をした後になって急速に被告との交際を深め、平成三年八月一日被告と婚姻した。

2  原告は、平成三年当時、神戸製鋼の在米統括会社(以下「神戸製鋼USA」という。)に出向中であったため、被告は同年一一月一時帰国した原告と国内で挙式した後に原告と共に渡米し、ニューヨーク市のアパートで原告との夫婦生活を始めた。

3  原告には自分の気に入らないことがあると前後の見境なく突然激こうするところがあり、ニューヨーク滞在中にも次のようなことがあった。

平成四年二月当時、神戸製鋼USAのニューヨーク事務所を縮小してデトロイト市に新事務所を開設し、駐在員が同市に転勤するという案が検討されていて、ニューヨーク駐在員とその家族の間では重大な関心事になっていたのであるが、治安が悪いといううわさのあるデトロイト市に転勤することに不安を持った被告が、同月二四日夜、原告に対し「デトロイトへは転勤しないで、ニューヨークからの出張でカバーできないのかしら。」と発言すると、原告は「何だと。分かりもしないくせにっ。」と怒鳴るなり、リビングルームの食卓のいすに座っていた被告を床に引きずり倒し、被告の顔面を数回にわたって手の跡が残るほどの力で殴るなどの暴行を加え、これに驚いた被告が鍵のかかるベッドルームに逃げ込もうとしたところ、原告は、部屋の前に立ちふさがって、被告をにらみつけるなどした。

また、同年三月二五日の夕食時、被告が原告に対し「義父の手術前に一時帰国して見舞いに行ったほうが良いのではないか。」と発言したところ、原告は突然怒り出し、当日被告の父からの電話で明への見舞いを促されたことに関して「お前の父親から冷血人間呼ばわりされたっ。」と叫び、テーブルの向い側に座っていた被告にビールの入ったコップを投げつけた上、被告の顔面を殴りつけ、「出て行けっ。」「東京へ帰れっ」と何度も大声で怒鳴った。さらに、当夜一二時ころ、被告が実家に電話をかけて母と話をしているのを聞きつけた原告は、被告から受話器を取り上げ、被告の母に対し「もうやってられませんから、夜が明けたら帰します。」と語気強く言い捨てて一方的に電話を切るに及んだ。被告は、原告のこの行動に恐怖感を抱き、身支度をして部屋を出て、アパートの寒い玄関ホールのソファに朝までとどまっていた。

4  平成四年一一月妊娠を知った被告は、体調の安定期に入った時期である平成五年三月二日帰国し、実家に滞在して出産に備えた。原告は、神戸製鋼から同年四月一日付けで東京本社への転勤を命じられたため、同年三月末帰国し、原告の実家(東京都世田谷区○○所在)の近隣に家族用の賃貸アパートを確保し、暫く単身で同所に居住することとした。被告は、同年七月五日××病院で良子を出産した後、同年一〇月二三日まで良子と共に実家に滞在して産後の養生に努めてから、同日前記賃貸アパートに移って原告との同居を再開した。

なお、滞米中、被告が、出産のため聖路加病院の手配をしたい旨を告げると、原告はこれに反対し、原告の母や姉妹と同じく原告の実家近くの小さな町の医院を探すように強く主張し、「内孫のお見舞いには親父の関係者が大勢来るから、大病院では融通が利かない。」などと言い立てたため、妊婦である自分の意思を尊重してくれるものと思っていた被告は「初産の不安をなぜ案じないのか。」などと反論し、原告との間で口論となったが、原告は容易に被告の意向を受け容れようとはしなかった。

5  明は、平成四年三月ころ食道がんの末期の状態にあることが判明して入院し(第一回入院)、平成五年に入ってからも同年一月から三月一九日まで(第二回入院)、六月二六日から九月二日まで(第三回入院)と、入退院を繰り返した後、平成五年九月二日死亡した。被告は、帰国直後の同年三月三日から同月一九日までの一〇回以上、六月二八日から九月二日まで約一〇回程度、明を病院に見舞い、この間××病院を退院した当日にも良子を連れて明のもとに赴き、無事出産したことを報告しただけでなく、当日を含めて約五回良子を同行して明に会わせ、明に喜んでもらう努力を重ねた。

もっとも、被告は、××病院を退院する際、担当医師から、末期がんの患者はMRSAに感染している可能性が高いので新生児を病院に連れて行く場合にはできる限り短時間の面会にしたほうがよいとのアドバイスを受けたので、このことを原告に告げると、原告は、被告が明のもとに良子を同行するのを拒否するかのように受け取って不機嫌になった(甲一号証中にある、原告が土下座をして頼んだ結果、被告がようやく良子を明に面会させた旨の原告主張に沿う記載は、採用することができず、その他右主張を認めるに足りる証拠はない。)。

6  原告は、平成六年五月、原告の母が居住する敷地内に同人から約二億五〇〇〇万円の資金援助を受けて新居を完成させたので、原、被告らは、同年六月、右の新居に転居した(被告が、原告の妹が六〇坪の土地付き家屋に住んでいるからそれ以上でなければいやと主張して譲らなかった旨の原告主張を認めるに足りる的確な証拠はない。)。

7  ところが、転居直後の同年七月二日午後六時ころ、被告が原告と共に新居の二階で新築祝いのお礼のことで相談していたところ、原告が突然「出て行けっ。」と怒鳴り出し、被告の身体を小突いたため、良子を抱いていた被告は、危うく二階から突き落とされそうになった。さらに、原告は「包丁を持って来るから、ここで自分で刺して死んでくれ。おれが刺せば人殺しになるからなっ。」と叫んでキッチンに入って行ったので、これに危険を感じた被告は、あわてて戸外に飛び出し、近所に住む義妹宅に避難した。

その後の当夜午後一一時ころ、被告が義妹の夫に付き添われて自宅に戻ると、玄関ドアに鍵がかかった状態の自宅の窓から原告が顔を出し、「ここは甲野の家だ。お前は入れないっ。」と叫び、「さっさと実家に帰れっ。」と怒鳴って、被告に向かって一万円札を投げつけた。次いで原告は自宅から出て来て、良子を抱えたままの被告の髪の毛と右上腕部をつかんで引きずり、被告を約二〇〇メートル離れた環状八号線の道路沿いまで無理やり連れ行き、同所のガードレール付近で、「車に飛び込んで死んでしまえっ。」と叫びながら、被告の背後から被告を車道に向かって押し出そうとしたり、被告の顔面を殴りつけるなどの暴行を加えた。

8  さらに、同月八日午後六時ころ、原告と被告は外食をすることに決めたので、被告が身支度を整えて原告を待っていると、原告が外出をするように見えなかったことから、「外に行かなくてもいいですよ。」と一言いった途端、原告は突然怒り出し、被告に対し「早く荷物を持って出て行けっ。」と怒鳴り、離婚届を取りに行くといって自宅から出て行った。

この様子を見た被告は、同月七日のいきさつもあって、原告の態度に恐れをなし、直ちに良子を抱き、ハンドバッグを手にしたままで自宅を飛び出し、その夜は義妹宅に泊ったが、翌九日日、被告の実家に身を寄せる以外に原告の暴行によって自己及び良子が被ることあるべき危難を避けることはできないと考えて別居を決意し、同日午前一〇時ころ良子を連れて義妹宅を出て実家に赴き、それ以来今日まで原告との別居状態が続いている。

9  被告は、平成五年二月ころから原告との性交渉を避けるようになったが、それは、出産前後の母体を保護しようとする気持によるほか、原告から言葉では言えないような性行為を要求されたこともあって、性交渉に消極的な態度になったことに起因していた。なお、被告は、原告に対して「バツ二」の発言をしたことがあるが、それは事あるごとにしたものではなく、夫婦げんかの際に、たまたま売り言葉に買い言葉のようにして言ったことがある程度にすぎない。

10  被告は、現在、原告からの毎月一五万円の婚姻費用(東京家庭裁判所平成七年(家)第一六七九三号同八年四月五日家事審判により命じられたもの)の送金のほか、父母からの援助等によって、良子と共に実家で生活しているが、いまだ原告との婚姻生活を修復することができるのではないかとの気持を捨て難く、離婚に応ずる確定的な意思を持つに至っていない。

二 以上の認定事実によれば、原告と被告は平成六年七月九日以降被告が自宅を出ることにより別居状態を継続してはいるが、被告が右別居を決意したのは、原告の暴行によって自己及び良子が被ることあるべき危難を避けるためのものであって、被告は、現在も、原告との婚姻生活を修復することができるのではないかとの気持を捨てておらず、離婚に応ずる確定的な意思を持つに至っていないというものである。

なるほど、右一連の事実関係によれば、別居に至るまでの原、被告の婚姻関係はかなり不安定な状態にあったことを否定することができないが、そのような状態に陥ったことの主たる原因は、それまでの原告の、配偶者の気持を何ら顧慮せず、自己の感情を抑えることをしない独善的な態度にあることが明らかであって、原告が以後このような態度を真しに反省し、被告との融和を図る積極的な努力をするようになれば、被告との婚姻関係はなお修復の可能性があるものと考えられる。

そうすると、本件においては、いまだ、婚姻を継続し難い重大な事由があると認めることはできないものというべきである。

三  以上の次第であるから、原告の本訴請求はその余の点を判断するまでもなく理由がなく、棄却を免れない。

(裁判官福岡右武)

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